徳川幕府は鎌倉幕府よりなぜ長く続いたのか

朝、犬を散歩させながら本郷和人さんの『北条氏の時代』をAudibleで聴いていました。

 

面白い内容の本でしたが、最後の結論部分で、なぜあれほど力があった北条氏があっけなく倒れてしまったのかについての説明が特に興味深いものでした。

 

要するに、北条氏の支配下の土地が増えすぎてしまったからなんだそうです。(最盛期には全国の守護職の半分くらいを持っていたとのこと。)

 

北条氏を倒せば、勝った武士たちがこれらの土地を恩賞として貰えるわけですから、多くの武士たちは張り切って北条氏を裏切り、攻める側に回ったのだそうです(本郷氏の本によれば、北条氏の滅亡時に最後の得宗家当主である北条高時と共に自害したのは、北条一門の人などがほとんどで、一般の御家人らしき人の名前はほとんど見当たらないのだそうです)。

 

ご恩や奉公と言っても、所詮は経済的利害を前提にしてのことですから、結局はこう言うことになってしまうのでしょうね。

 

この話を聴いて気になったのは、江戸幕府のことです。

 

昔、中学か高校のときに、幕府の天領のことを授業で習ったときに意外と少ないなと思った記憶があります。そこで、改めて調べてみると、たしかに少ないんですね(それでももちろん、徳川氏は日本最大の領主であったわけではありますが)。

 

徳川幕府発足の頃は二百万石程度で、その後改易等で増加したとは言っても、最盛期でも四百数十万石だったそうです。これは、全石高の十数%にすぎなかったようです。(なお、その間に新田開発などで、全国の総石高は増えています。)

 

徳川幕府は鎌倉幕府の約2倍の期間存続したわけだから、そう考えるとこのあたり(十数パーセントの取り分)が均衡(安定)水準だったのかもしれません。

協力ゲーム理論風に考えると・・・

株式会社の支配権のように、基本的に過半数を取ることで全体が支配できる投票ゲームの構造だと、過半数の奪取をめぐって常に裏切りの動機が生じてしまって、不安定化が生じやすくなるという有名な例が協力ゲーム理論にあります。


その観点に立つと徳川氏が選んだ十数パーセントの取り分というのは、裏切りの動機を封じ込めるためには有効だったのかもしれません。つまり、全体としてこの程度の取り分しかなければ、たとえ諸大名が連合して徳川幕府を倒したとしても、各者が受け取る裏切りの利得は大したものではありません。したがって、この程度の利得を狙って積極的に裏切ろうする動機は生じにくくなってしまうわけです。


もちろん、徳川政権が利得、すなわち自分の取り分の最大化を目指したならば、北条氏のようにどんどん取り分を増やしていく(つまり天領をどんどん拡大していく)方向を狙ったのかもしれませんが、徳川政権は(短期的な)利得獲得の機会をある程度犠牲にしてでも、政権の長期的な存続を目指したと言うことなのかもしれません。

投稿者プロフィール

佐々木宏夫(ささきひろお)
佐々木宏夫(ささきひろお)
早稲田大学名誉教授。フリーランスの研究者。専門は理論経済学+ゲーム理論。Ph.D(ロチェスター大学:指導教授はポール・ローマー(2018年ノーベル賞受賞者))
インターネットラジオvoicyでパーソナリティとして発信中(「佐々木宏夫のアカデミア紀行」)。
趣味はスキューバダイビング(2023年10月に600本を達成)。還暦を過ぎましたが、隠居にならないように、研究、教育、趣味等で頑張っています。2022年12月からは東京と石垣島の2拠点生活をしています。

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