2024年の年頭に思うこと:南の生き方と北の生き方

インターネットラジオのvoicyの私のチャンネル「佐々木宏夫のアカデミア紀行」で2024年1月1日に行った生中継をも文字起こししてみました。(少し手直ししてありますが)

皆さん明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

この放送を聞いていらっしゃる皆様は、おそらく日本の各地、あるいは場合によったら世界の各地に住んでおられる方々だと思います。今、私は今石垣島におりますが、今日飛行機で一旦東京に行って--最近は「(東京に)行く」という言い方をしますけれども--、数日間を東京で過ごしてからミクロネシアに行く予定です。そして、1月の半ば以降に、またこちらに戻ってこようかなと思っています。

今日は特別にこのテーマを決めるというのではなくて、正月ですから、年頭にあたって今考えていることなどをお話ししたいと思います。特に、去年から石垣で1年の半分ぐらいは暮らす生活を始めましたので、そういう中で、感じたこと、あるいはそれをきっかけにして、私自身の人生をこれからどうしていこうかというような話などもしていきたいなと思います。

ちょうど1年前の12月にこの石垣島に小さな部屋を求めまして、最初は移住しようというような格別な意識もなくて、まずは1年のうち何日間かはここで過ごしてみて、そのうち滞在する期間が短かすぎるようになったならば人に貸してもいいかな、など、あまり深く考えないでここに住まいを持ったわけです。でも、実際にここで暮らしはじめてみると、石垣島はいろいろな意味でとても居心地のいいところなんですね。要するに僕の気質や体質など、そういうものに、この地域の人々の生き方、そして気候風土などが合ったということなんだと思います。ある意味「相性」が良かったと言うことなのでしょう。

住みだしたのは2022年の12月からですが、年が明けて2023年の2月と3月は、ほとんどの期間を石垣で過ごしました。東京と比べてこの時期の石垣島はとても温かくて、私のように年を取ってくると、もうそれだけでもここでの暮らしを気に入ってしまうわけです。

それに加えて、ここの土地柄の良さですね。ほどよく地元の人と移住者(石垣島の移住者には、早い時期に沖縄本島やその他の離島から開拓等のために移住してきた人々と、最近になって内地のさまざまな地域から移住してきた人々がいます)が混ざりあっていますし、そういう状況ゆえのことか、よそ者に対する排外的・排除的な意識もあまり感じません。もっともこの点(排除意識)については、私が住んでいるのがマンションだという点にもよるのかもしれません。小さな集落で戸建て住宅に住む場合など、地域への密着度が高まってくると違う面も見えてくるのかもしれませんが、少なくとも私自身はこの1年間そのようなことは感じませんでした。

それからここに住み始めた当初は、小さな島にずっといると、退屈したり息が詰まったりしないか?などということを心配していたのですが、実は石垣島というのはほどよい広さの島であり、また多様な人々が住んでいますので、そんなに退屈をしないで過ごせます。しかも今の時代、世界中からの情報がインターネットでどんどん入ってきますから、そういう点でも特に不自由することはありません。

むしろ東京に少し長めにいると、早く石垣に戻りたいと思ってしまうんですね。そう言ったこともあって、気がついたら、石垣の住まいは当初想定していたような別荘的なものではなくて、「1年の半分は住む」ためのものになっていたわけです。このようにして、私の場合は、移住の前段階としての2拠点生活が始まったわけです。

今年(2024年)も基本的にはそういう生活をしようと思っています。もっとも毎年4月から7月の間は大学で1科目だけ残している科目がありますので、その授業を対面でしなければならないので、主に東京にいることになります。それ以外の期間は、できる限り石垣にいようと思っています。

戦前の台湾で生まれ育った母のこと

地理的に見ると、石垣島などの八重山諸島は、沖縄本島と台湾のちょうど中間地点に位置しています。正確にいうと、石垣島と台湾の距離は沖縄本島との距離よりも若干短いのですね。

実は台湾という島は、私にとってある種の「縁」のある場所です。と言いますのは、私の母は戦前の日本統治下にあった台湾で生まれ育って、青春時代までをそこで過ごしていたからです。

元々、母の実家は、熊本県にあったのですが、祖父の仕事の関係で台湾に引っ越し、そこで彼女は生まれて育ちました。ですから母にとって台湾は故郷でありまして、彼女は日本の敗戦をきっかけにして故郷を喪った人だったわけです。

ところで、最近は「難民」についてのあれこれが日本でも話題になることがあります。例えば、パレスチナ難民などのように、故郷や父祖の地を喪って異国や異郷で暮らさなければならなくなった人々が世界の至るところにいて、そういう人たちが広い意味での「難民」と呼ばれているわけです。

難民についての話題が出ると、多くの日本人は自分たちとは直接の関係のない他人事であるかのように感じる人も少なくないかと思いますが、実は日本人にも故郷を喪って異郷で暮らすことを余儀なくされた人は、たくさんいるんですね。それは、第二次大戦の敗戦で、日本が国外の領土を全部失ってしまったときに日本に戻ってきた人たちの多くです。あの時代、自分が生まれ育った故郷を喪ってしまった人は、私の母だけでなく日本にはたくさんいます。

そういう人たちの多くは、今、世界各地で難民になった人々と同じような経験をしているわけです。例えば、私の母にとって、本当の故郷は台湾なんですが、そこは2度と行けないわけです。とそういう意味では少なくとも精神的に見ると、彼女もある種の難民(あるいは異邦人)だったのです。

ですからそういう風に考えると、今の時代に難民となった人々が直面している様々な問題は、決して他人ごとではなくて、少なくない日本人自身がそれほど遠くない過去において経験していたことと重なるものがあるのだろうとも思います。

母は死ぬまで(90歳すぎまで生きました)ずっと台湾への強い望郷の念を抱いておりました。ただその一方で、我々子供たちが成長してある程度経済的に余裕が出てきたときに台湾に行こうかという提案を母にすると、彼女は行きたくないと言うんですね。その理由を尋ねてみると、B29の空襲に怯えた戦争中や終戦直後の辛い日々を思い出したくないからだということでした。

このように、母の思いは複雑でした。

「希望をもって生きていればなんとかなる」:「なんくるないさ」に通じる考え方

さて、なぜ母と台湾の繋がりの話をしたのかといいますと、実は石垣島の風土文化というのは、先ほど申し上げたような地理的な近さということもあって、母が懐かしんでいた台湾の自然や天候、あるいは生活様式などと繋がるものがあるように思います。

例えば母はガジュマルの木の話をよくしていました。「台湾では、いたるところに大きなガジュマルの木があって、どれも大きく枝を張り出していて、そこには葉がたくさんついていてね。台湾は暑いところだけれど、ガジュマルの木の下に行くと日陰ができていて、涼しい風が通り抜けていくのよ」といったことを懐かしそうに話していました。

石垣島にもガジュマルの木がたくさんありますが、しっかりと大地に根を張ったガジュマルの木は心強い存在です。石垣島でも暑い日にガジュマルの木の下に行くと、涼しい風が吹いてきます。ガジュマルの事だけでなく、母が語っていた台湾の話には、結構石垣島との共通点があったりします。

私が高校生の時に父が亡くなり、私と姉を育てるために母はなみなみならない苦労をしたのですが、そういう中で彼女は、「私は南国の生まれだから、根が楽観的なのよね」ということをよく言っていました。色々と苦労はあったのだけど、なんとかなるさという思いがいつもあって生きてきたと、晩年よく言っていました。沖縄の「なんくるないさ」という言葉は、まさに「なんとかなるさ」と言うことですから、母は沖縄風に言えば「なんくるないさ」の精神で人生の様々な困難を乗り越えてきたのでした。

今あげた例からもお分かりいただけるように、母が台湾で経験してきたことや感じてきたことは、どこか沖縄や石垣島での生き方などに通じるものがあるような気がします。そういう風に考えると、私がこの石垣島で暮らして感じる心地の良さは、一つには母から聞いていた台湾に通じるものがこの土地にあって、そこに懐かしさやシンパシー、あるいは安らぎのようなものを感じるからなのかもしれません。

それに加えて、私も母の子供でありますから、どこか母と同じように楽観的なところがあって、自分の性格的にも南国の感覚の方が北国の厳しい感覚より、合っているのこもしれません。そういう諸々のことから、ここで暮らすことに心地よさを覚えるんだろうという気がしています。

追記)調べてみると「なんくるないさ」には、単なる「何とかなるさ」以上のもう少し深い意味があるのだそうです。この言葉は「まくとぅそーけーなんくるないさ」という定型句の一部分だそうでして、この定型句は「誠のこと(正しいこと)をすれば、何とかなるさ」という意味なんだそうです。(https://ryukyushimpo.jp/hae/prentry-201485.html)つまり、未来を否定的に捉えていないという点では、楽観的な意味合いなんですが、ただ楽観的なだけではダメで、正しい生き方をすることが未来を楽観視できるための前提条件になっているわけです。

石垣島で見かけた立派なガジュマルの木(撮影:佐々木宏夫)

地方都市にありがちな「衰え」を感じさせない街

ところで、私は、先々月ぐらいから八重山毎日新聞という地元の新聞の電子版を取っています。今朝は正月なので、八重山毎日も正月特集の特別編成で、第1部、第2.3.…とたくさんの紙面から構成されています。こういう小さな島(石垣市の人口は5万人強です)で立派な日刊紙が発行されているのは素晴らしいことでありますけれども、この地域にはそういうことが可能になる基盤があるとも感じています。

日本の地方には過疎化が進んでいる地域も少なくありませんが、そういう過疎化した地域に見られる「衰え」を、八重山、特に石垣島では感じられないのですね。むしろ石垣島にはある種の発展の芽が垣間見えます。もちろん発展と言っても「高度成長」ではないのですが、決して地域が死んではいないで、少しずつ変化しながらちゃんと動いているのを感じます。

「衰えていない」という点で、もう一つ特記すべきことは、少なからぬ若い人たちに文化が継承されていることです。例えば、東京で三線の勉強をしている友人が石垣島で行われている八重山古典民謡コンクールで優秀賞を取って、その発表会に出るというので、私も先日市民会館まで聴きに行きました。ところが、そのコンクールで優秀賞や新人賞などを受賞した人の中にけっこう若い人が多いんですね。大学生や高校生とおぼしき人たちもいました。内地では、民謡などというと年寄りばかりがやっているという印象ですが、ここでは若い人たちが熱心に取り組んでいるんですね。

あるいは私の近所の方のお孫さんは高校生なんですが、高校で八重山の踊りのクラブに入っています。先日彼女が伝統的な衣装で踊る姿を、動画で見せて貰いました。

一方で石垣島には高校までしかなくて、大学に行くためには沖縄本島や内地に行かなければならないという状況はあるにもかかわらず、若い人たちが地域の自然風度や文化に愛着を持ちながら、生き生きと生きているという面がこの地域にはあります。

このような状況を知るに連れ、どんどん駄目になってくる日本経済の現状下で、八重山というのは希望のもてる土地なんだ、ということを最近は感じるようになってきています。

「南の生き方」と「北の生き方」:なぜキリギリスではいけないのか?

これからお話しすることはだいぶ前から徐々に考えてきたのですが、私は北方の発想や生き方と南方のそれにはかなりの違いがあると思っています。(前者を「北の生き方」、後者を「南の生き方」とでも呼んでおきましょうか。)

アリとキリギリスの話を思い浮かべていただければ良いのですが、北の生き方や発想というのは、冬に備えて夏のうちからせっせと働いて食べ物を備蓄するアリさんのような働き者を賞賛するものなんですね。それに対して、南国の生き方や発想は「なんくるないさ」の精神ですね。将来のことをくよくよ思い悩むよりも今を大切にする思想、と言っても良いのかもしれません。(もちろん、先述した「なんくるないさ」の元々の意味を考慮すれば、南の生き方といっても、それは野放図・無原則な楽観的姿勢をよしとするものではなくて、あくまでも人としての一定の正しさの規範に服すことを前提にしての楽観的生き方をよしとするものですが。)

少なくとも明治維新頃からの日本は、北の生き方をずっと重んじて目覚ましい発展を遂げてきました。もちろん明治以降の日本がずっと順風満帆だったわけではありませんが、それでも長期的な基調は右肩上がりだったわけです。

ところが、90年前後のバブル崩壊の頃から、この流れが明らかに変わってしまいました。最初は「失われた10年」と言われ、次には「失われた20年」となり、…、遂には「失われた40年」になるのではないかとまで言われるようになってしまいました。そうなると、何か社会や経済の基本的なあり方が、変わってきてしまっているかのように思えるわけです。そういう現状を見るにつけ、そろそろこれまでの考え方を捨てて新しい道を模索しなければならない時期になってきたのではないか、という気がします。

そういう風な目で我々の社会を見たとき、これから日本が進むべき道というのは、南の発想や生き方を重んじる方向性ではないのかという気がしています。私の母は「自分は南国育ちだから、何か物事を楽観的に捉えているのよね。だから何とか生きていけるさという希望だけはいつも失わないでこられたの」と言っていましたが、そういう考え方は、これからの日本社会にとってとても大切なことなのだという気がするわけです。

ですから高度成長期のように日々豊かになっていく状況が実感できるようなことはなくなっても、みんなで助け合っていけば何とかなるさというような社会を、我々は目指していかなければならないと思うのです。

そういうふうに考えると、先ほど述べたような八重山や沖縄での生き方や考え方というのは一つのモデルを提供してるのではないかという気がします。

ところで、先日voicyの放送で、コレクティブ・インパクトについてお話ししましたが、そこの時にコレクティブ・インパクトの考え方はWeb3の考え方などにもつながるものがあるのではないかと言うようなことをお話ししました。

コレクティブ・インパクトにせよ、web3にせよ、そういう考え方が出てくるのは、市場経済(むしろ資本主義経済と言うべきかもしれませんが)の利潤追求や個人のあまりにも利己的な経済的繁栄だけを追求する社会あり方はもう限界に来ていて、これからは日本だけでなく世界のいたるところで、みんなが助け合って生きていく道を模索していかなければならないのではないでしょうか。

しかもそういうみんなが助け合って生きていくコミュニティの中で、過大な負担を誰か限られた人にだけ要求するのではなく、みんなが自分の出せる力をちょっとずつ発揮していけばいいのです。例えば何かのシステム開発をしようとする場合でも、そういうことに参画できる能力や技能を持った人々が自発的に集まってきて、自分はこれは協力できますと言うことで格別な対価などを目的にしないでプロジェクトに参加していくというような形で、社会の基本的な機能が維持されるというような、そういう社会が来るんだろうと思うし、また来るべきだというふうにも思っているわけです。

恨みが充満する資本主義経済:例えばマルクス主義は恨みの哲学ではないか?

その場合はモデルになるのは、実は北の精神や生き方ではなくて、南の精神や生き方だと言う気がします。実は資本主義経済というのは、北の精神を基盤として生まれた体制だという気がしています。

そして、北の精神の根っこにある社会や他者に対する意識は「恨み」だと私は思います。

例えばマルクス主義というのは、ある意味で恨みの意識が充満した考え方だと思います。労働者と資本家に階級が分化し、その惨めで弱い立場に置かれた労働者の恨みをはらすという強い意志が、マルクス主義の根底にあるような気がしています。そう言う意味で、マルクス主義は、「恨みの哲学」であるということもできそうです。

そういう恨みの哲学が出て来るのは、北国が極めて過酷な世界だと言うことに由来しているのではないでしょうか。例えば、北国では、冬に暖炉にいれる石炭がなければ凍え死んでしまうかもしれません。食べ物にしても、南国のように自生しているものはほとんどなくて、努力して獲得しなければ生きていけません。まさにアリとキリギリスの話のアリさんのように、いつも一生懸命努力していなければ自分の最低限の生存さえ確保できないのが北国なのです。

それに対して、南国では熱帯ならば衣服がなくても凍え死んでしまうことはありません。亜熱帯の石垣島あたりではさすがに裸で暮らすのは難しいかもしれませんが、分厚い毛皮のコートなどは不要です。

そういう「緩い」世界をベースにした社会構築というのが、これからはものすごく大切なのではないかと思います。北の世界のような一生懸命努力しないと死んでしまうかも知れないという過酷な環境下で、努力しても報われない人たちは、報われた人々、例えば金持ちに対して恨みを抱き、恨みを晴らそうとする。何かこういうギスギスした北の思想というのが、そろそろ限界に来ているのではないでしょうか。

北の過酷な環境は、自分の周囲の人間をみな敵かライバルにしてしまい、取るかとられるかの戦いを始終引き起こします。そして、それが競争の原動力にもなっているわけです。そういう人と人との闘いは、確かに経済成長や目覚ましい経済発展をもたらすのかもしれませんが、その分そういう過酷で荒々しい状況の中で、果たして人間は本当に幸せに生きることができるのかという、人生の本質に関わる問題が出てくるのではないでしょうか。

ですからこういう点でも、私は、石垣島でいろいろと勉強をしたり、人と交わったりしながら、さらにはWeb3やコレクティブ・インパクトなどの概念を勉強しながら、何か新しいものが見えてくるといいな、というふうに思っています。

以上、年頭にあたって、今考えていることなどについてお話をさせていただきました。

投稿者プロフィール

佐々木宏夫(ささきひろお)
佐々木宏夫(ささきひろお)
早稲田大学名誉教授。フリーランスの研究者。専門は理論経済学+ゲーム理論。Ph.D(ロチェスター大学:指導教授はポール・ローマー(2018年ノーベル賞受賞者))
インターネットラジオvoicyでパーソナリティとして発信中(「佐々木宏夫のアカデミア紀行」)。
趣味はスキューバダイビング(2023年10月に600本を達成)。還暦を過ぎましたが、隠居にならないように、研究、教育、趣味等で頑張っています。2022年12月からは東京と石垣島の2拠点生活をしています。

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