経済リテラシーとは何か(序)

情報リテラシー、金融リテラシー、そして経済リテラシー

最近は、「情報リテラシー」や「金融リテラシー」など、「リテラシー」がつく言葉をよく耳にします。リテラシー(literacy)は、「識字率」をliteracy rateと呼ぶことなどからもわかるように、元々をたどれば「文字を読む力」というような意味合いの言葉でした。

その後、この言葉の意味は徐々に変容していき、最近では「ある事柄を正しく理解する力」、さらには(そのような理解を前提とした上で)「それを適切に活用する能力」などを意味するようになってきています。

 

そういう風にリテラシーという言葉を理解すれば、「情報リテラシー」は、「さまざまな情報の意味や定義を正しく理解し、それを適切に活用する能力」を意味することになります。また、「金融リテラシー」は「金融商品の仕組みや金融現象など、『金融』に関するさまざまな事柄を正しく理解し、それらを適切に利用する能力」を意味することになるわけです。

 

さて、この文章の表題である「経済リテラシー」のことです。

 

「情報リテラシーや金融リテラシーなどは耳にしたことがあるけれど、経済リテラシーなんて聞いたことがない」とおっしゃる方も多いでしょう。それもそのはずで、この言葉は私の造語だからです。

 

もちろん私以外の方が、何かの拍子にこのような言葉遣いをすることがあるかもしれませんが、多分金融リテラシーなどと同様に経済リテラシーも大切だと考えているのは、今のところ私ぐらいのものだろうと思います。

 

それでは、「経済リテラシー」とはなんでしょうか?

 

他の「リテラシー」が付く言葉と同じように考えて貰えば、差し当たって「経済活動が行われる場である市場の仕組みや機能、そしてそのプレイヤーである企業や消費者の行動原理を正しく理解し、それを適切に活用する能力」のことと思っていただけばいいと思います。 

 

会社が「一生もの」でなくなった時代

経済学者としての長年の研究や震災後の陸前高田で行った起業支援のお手伝い、あるいは企業の社外役員として身近に見てきた企業経営の姿などに照らしてみると、現代の社会で仕事(ビジネス)をうまくやっていくにあたっては、経済リテラシーを身につけることはとても大切だと私は感じております。

 

実は、アメリカで暮らしていた頃の経験では、アメリカ人のビジネスパーソンには、子供の頃からの教育や経験によって知らず知らずのうちに経済リテラシーが身についている人が多いと思います。

 

しかし、残念ながら日本では、子供の頃にお金や市場などについての現実感覚を伴う教育を受けていないせいか、そしてそれに加えて後述するように、そもそも「経済学なんて何の役にも立たないさ」というような意識が社会に蔓延しているせいもあって、経済リテラシーを身につけていない人が非常にたくさんいるような気がします。

 

しかし、近年の日本社会は大きく変貌しつつあります。

 

学校を出て会社に入れば、格別な仕事のスキルや資格などのない人であっても、定年まで会社が生活や仕事の面倒を見てくれて、黙っていても給料は年々上がっていく。そして、定年退職時には十分な金額の退職金が支給されて、それと公的年金を合わせれば死ぬまで安楽な生活が保証されるというような、高度成長と終身雇用制の恩恵を目一杯に享受できた世代は、「絶滅危惧種」だとまでは言いませんが、それでも今では一握りの高齢者層だけになってしまっているのは確かです。

 

多くの働く人々にとって、もはや会社は「一生お世話になるところ」ではなくなってしまっています。

 

たいていの日本人は、学校卒業時の就職活動だけでなく、人生のうち何度かは職探しを経験することになるでしょう。職探しというのは、労働市場で自分の労働力を買ってもらうことなのです。ですから、当然に転職活動を成功させるためには市場についての理解力、すなわち経済リテラシーは必要なのです。

 

あるいは、老後に備えてお金を貯めるとしても、昔は銀行の定期預金に入れておけば、黙っていても年に5−6%の利息がついた時代もありました。しかし、今はそんなに有利な銀行預金などありませんし、そもそも銀行にお金を預けるときにも破綻リスクなども考える必要があります。

 

こういう状況ですから、盤石な老後のためには、銀行預金をするだけでなく、株式や債券、あるいは不動産などへの投資も考えなければなりません。そうなると市場で売られているさまざまな金融商品や不動産等々についての「目利き力。、そしてさらにはそのような商品が売買される市場の将来性などについての「目利き力」を持つことが必要になってきます。

 

このような「目利き力」を養う基礎となるのが経済リテラシーなのです。

日本に渦巻く経済学への不信感

「経済学者なんかに経営のことが分かるのかな…?」

先ほど述べたように、日本では、人々--特にビジネスに関わる人々--の間に、経済学への不信感が渦巻いているような気がします。

例えば、こんな話を聞いた事があります。

日本でも有数のある企業の経営者が、その会社の経営に関するアドバイザー的な仕事をある経済学者に依頼しようかと言う話が社内で持ち上がったときに、「経済学者なんかに経営のことは分かるのかな?」と言って懸念を表明したのだそうです。

その経営者の方は、「学者は世間知らずだから」と言うような一般的な観点で反対したのではなくて、あくまでも候補者が「経済学者だから」ということで懸念を表明したようなのです。さらにその時、その経営者の方は、「経営学者の方が望ましいのではないか」とも主張されたらしいのです。

この話の最終的な結論、つまり経済学者が採用されたのか、それとも経営学者が採用されたのかを、私は知らないのですが、少なくともこの経営者の頭の中には、「経済学は(特に企業経営においては)役に立たない」とか、「経済学者は現実を知らない」というような考えがあったのは確かでしょう。

そして、そのような考えは、この経営者の方にとどまらず、特に日本においては社会に根強く存在している意識であるような気がします。

しかし、上述の企業経営者(ちなみにこの方は、大学では経済学部を卒業されているのだそうですが)は、ご自分の「メシのタネ」であるビジネスが市場で行われていることはもちろんご存知のはずです。

それにもかかわらず、この方が市場の仕組みや動きなどを学ぶ学問である経済学やそれを研究する人々(経済学者)を軽視するというのは、非常に奇妙な話です。

例えば、もし患者さんに向かって「医学や医学者なんてなんの役に立たないよ」などというお医者さんがいたとしたら、それを聞いた患者さんは、かえってこの先生に不信感を抱いてしまうのではないでしょうか。

しかし、日本のビジネスの世界では、日々市場に向き合っている経営者が、「経済学なんて役に立たないよ」とか「経済学者よりも経営学者の方が役に立つよ」などということを平然と言ってしまうのです。

「経済学部に進めばつぶしが効くから・・・」

前項で紹介したある企業経営者の発言は、その方独特のお考えでもないような気がしています。

むしろ日本でビジネスに携わる多くの人々の間に、多かれ少なかれ蔓延している考えであるような気がします。

だから大学受験生やその親御さんは、受験先の学部選定に際して、「つぶしが効くから」というような安易な姿勢で、経済学部への受験や進学を選んだりしてしまいます。

大学で学ぶということは、本来ならば専門性を磨くことを意味しているはずです。医学部に進学する人のほとんど全ては、医師という医療の専門家になることを目指して、その選択をするのでしょう。音大のバイオリン専攻に進学する人は、成功するかどうかはともかくとしても、プロの演奏家になるという志を持っている人が多いでしょう。

「つぶしが効くから」という理由で医学部に進学したり、音大に進学する人はまずいないでしょう。

それにもかかわらず、経済学部の進学に際しては「つぶしがきく」ということが公然と語られてしまうのです(遠い昔の思い出ですが、高校時代に「つぶし」論で経済学部などの学部を勧めた先生もいました)。要するに、経済学部で身に付く専門性などに期待する親御さんや学生さんは(そして高校の先生も)ほとんどいないのでしょう。

「つぶし」論の背後にあるのは、「経済学なんて現実社会では役に立たないさ」という経済学への不信感なのです。

もっとも、専門性などを期待せずに経済学部に進学する学生の大多数は、大学卒業後はビジネスの世界で職を得て、定年退職までの長い期間を(「つぶし」論では軽視されてきた)市場と向き合って生きていくことになるわけです。

実に皮肉な話です。

経済学の理屈と日常生活:アメリカと日本の比較

「最も効率的に、最高のサービスをお客様に提供するのが、私たちの使命でございます」

若い頃、アメリカに留学していた時のことですから、だいぶ昔の話です。

留学先の大学で、ある日本人留学生が日本に帰国することになりました。その人と付き合いのあった人が7-8人くらい集まって、あるレストランで送別会を開くことにしました。

当日、その店に入ると、予約に従って4人がけのテーブルが2つ用意されていました。

ただ、せっかくなので、二つのテーブルをつなげて、参加者全員でまとまって座れないかという意見が出て、幹事さんが店の人にそのようにして欲しいというリクエストをしました。

こういうことは、日本では良くあることなので(アメリカでもそうしてくれる店もありますし)幹事さんは気楽な気持ちでお願いしたのですが、私たちのリクエストを聞いた係の人は困った表情になってしまいました。

どうも、私たちのリクエストに応えるのは難しそうな雰囲気なのです。

結局マネージャーがやって来て、丁寧な口調で説明してくれました。

「私どもの店では、最高のサービスをお客様に提供することを目的にして、テーブルやウェイトレスを配置しております。このテーブルの配置は、ウェイトレスが最も効率的に仕事ができるように考えてセットしたものです。テーブルの配置をご希望のように変えてしまいますと、ウェイトレスの間の役割分担が曖昧になってしまいますし、仕事の効率性も保てなくなってしまいます。そうなるとお客様が快適にお食事される環境を提供するという目的を達成することが難しくなってしまう恐れもあります。ですから、大変申し訳ございませんが、ご要望にはお応えすることはできないのです」

実に正々堂々とした正論でした。

さらにマネージャー氏は次のように付け加えました。

「私どもでは、多人数でお食事を楽しんでいただくお客様のために、大きなテーブルを設えた別室(佐々木注:パーティールームのようなところ?)を用意してございます。ただ、あいにく本日その部屋は、別のお客様のご予約でうまっております」

こう言われてしまうと、私たちもそれ以上の要求はできず、その日は2つのテーブルに分かれて送別の食事をすることにしました。

さすがに理屈屋さんの多いアメリカでも、たかだかテーブルをくっつけるくらいのことで、ここまでしっかりとした「理論」を述べて、こちらのリクエストを断られるという経験をしたことは後にも先にもありませんでした。そういうこともあって、何十年も前のことではありますが、今でも鮮明に記憶に留まっているわけです。

もっともこのマネージャー氏の本音は、上述の正論とは別のところにあったような気がします。つまり、二つのテーブルをくっつけて、複数のウェイトレスに一つの大きなテーブルを担当させることにすると、チップの配分ルールの見直しやウェイトレスの役割分担の再調整など、利害調整を伴う問題が生じる可能性が高いので、面倒なことは避けたい、と言うことが彼の本音だったのではないかと推察します。

ただ、本音はともかくとしても、筋の通った正論を言われてしまうと、客といえどもゴリ押しができないのがアメリカ社会なのです。

 

日本では、「察すること」で円満解決を図ろうとする

上に述べたレストランでの出来事でマネージャー氏が述べた理屈は、効率的な資源配分や分業、あるいはインセンティブというような経済学の基本概念によって構築された論理に基づいています。

このマネージャー氏が語ったことは、ウェイトレスの限られた労働力という希少な資源を、効率的に活用するという資源配分問題なのです。

つまり、人的資源の効率的な活用のためには、報酬体系と役割分担を適切に設計して、人々のやる気を最大限に引き出すことが肝要であること。そして、そうすることで客もまた大きなコストをかけずに快適に食事を楽しめるようになる、という経済学的な理屈がマネージャー氏によって披露されたわけです。

こういった経済学に基づく理屈は、日本では「屁理屈」と受け取られていしまうかもしれません。もしこのマネージャー氏のようにそういう理屈を滔々と述べる人に対しては、「書生論を語る人」という否定的評価が下されてしまうかもしれません。

日本で、同じような場面に遭遇した場合のことを想像してみましょう。マネージャーは、テーブルの配置を変えて欲しいという客の要求を断りたいと考えていたとしましょう。

そういうときに、日本のマネージャー氏はアメリカのマネージャー氏のような理屈を述べないでしょう。まず、彼がやることは、曖昧な表情を浮かべて、なんとなくそんなことはやりたくないという素振りを見せることでしょう。

もしお客さんが、雰囲気を「察して」くれて引き下がれば一件落着。しかし、流石にそんな曖昧なボディーランゲージを理解しない人も多いでしょうから、そうなるとマネージャー氏としては言い訳を用意して、「できません」という意思表示をしなければなりません。

アメリカの場合、その言い訳が経済学の理屈なのですが、日本のマネージャー氏はもちろんそんな「正論」を述べてお客さんに喧嘩を売るようなことはしません。言い訳はなんでもいいのです。お客さんの面子を潰さないような穏便な言い訳ならば、なんでもいいのです。

「このテーブルはとても重いので、移動させるのが大変でして・・・。あいにく今日は力持ちの従業員が休んでおりまして・・・」

いくら重いと言ったって、ここにいる何人かで力を合わせて移動させればいいじゃないか、などという野暮なことは言いっこなしです。

これだけ言われれば、流石に鈍感なお客さんでも「何か事情があってテーブルの移動をしたくないんだな」と「察する」でしょう。

日本では、円満な問題解決の秘訣は、相手の気持ちを忖度して「察する」ことなのです。

「忖度の文化」が横行する日本

「忖度」では、文化の壁は乗り越えられない

前項の文章の最後の段落に「忖度」と書きました。最近、日本の報道では、「忖度」という言葉が飛び交っています。

忖度という言葉の意味を国語辞書で調べてみますと、「他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること」(小学館『デジタル大辞泉』)とあります。

要するに、相手が何をして欲しいというからやるのではなくて、「多分この人は自分がこうして欲しいと思っているのだろう」と推測して、それに基づいて行動することが「忖度」なんですね。

先ほどのレストランのテーブル配置の例で言えば、マネージャー氏の顔つきや曖昧な物言いなどから、「ああ、彼はテーブルを移動したくないんだな」と推察して、相手がアメリカのマネージャー氏のように滔々と拒絶の理由を述べる前に、引き下がるというのが、日本の忖度文化(あるいは忖度的な行動様式)なのでしょう。

逆に日本では、アメリカのマネージャー氏のように堂々した理屈を言う人は嫌われますし、時にはそういう発言をすること自体が「喧嘩を売っている」のではないかと捉えられてしまって、紛争の火種になってしまうことすらあるわけです。

こういった日本的なコミュニケーションのあり方は、共通のルールや考え方が人々の間に暗黙裏に漂っている(まさに空気のように!)場合には、案外有効に機能します。

つまり、もし互いが「空気」を共有しているのならば、相手に何かをして欲しいと思った時に、要望を出す側は、要望したり、その要望の理由を説明したり・・・、といった手間を省くことができます。

要求を受けた側も、要求の適否を検討した上で、要望に応えるのが難しい場合にはその理由を説明し、相手に納得してもらう・・・、というような手間を省くことができます。しかも、そういう状況下では全ては円満に進んでいくでしょうから、人と人との無用な摩擦を避けることもできます。

ですから、日本の社会で、こういう曖昧さを基調としたコミュニケーションのあり方(これを「忖度文化」とでも呼べば)が長い間機能していたことには、一定の合理的な理由があったというべきかもしれません。

しかし、こういうコミュニケーションのあり方は、「空気」を共有していない人々、すなわち忖度文化とは異なる文化で生きてきた人々とのコミュニケーションを困難にさせます。

レストランで「テーブルをくっつけたいのですが・・・」と問われた時に、困ったような表情を浮かべて、モジモジと曖昧に笑うことで、「そんなことできません」という自分の意思を相手に理解してもらおうというのは、日本人同士だからできることであって、文化を異にする人と人との間で到底できることではありません。(もっとも、今は日本人同士でもこういう曖昧なコミュニケーションはうまくいかないことが多いかもしれませんが)

上述のアメリカのレストラン・マネージャー氏は、文化を超えた人々の間では当然の行動をとったと言えるのです。

忖度の文化は「一億総懺悔」の論理を生み出す

「忖度の文化」は責任の所在を曖昧にします。

例えば、上司が「あることをして欲しい」という気持ちを部下に曖昧に示したとしましょう。

この上司は決して「**しろ」とは命じていません。ただ、部下は上司の日頃の言動や会話の時の雰囲気などから、「上司はこういうことをして欲しいのだな」と忖度します。そして、そのような上司の暗黙の意思に沿って、部下はそれ(「行動X」と呼ぶことにします)を遂行するわけです。

時間が経ってから、その上司と部下が所属する組織で行動Xが問題になったとしましょう。例えば、行動Xによってその組織は多大な損失を被ったとしましょう。

組織としては、再発防止のためにも責任を明らかにする必要があります。

しかし、上司に問えば「自分はそんなことを命令していない。部下が勝手にやったことだ」と言い逃れるでしょう。部下は部下で、「上司の意思だ」と言い訳しようとするでしょう。

結局、上司が命令した証拠はないし、さりとて部下が独断でやったとも思えないし・・・、ということで、責任の所在が曖昧なままに一件落着となってしまうでしょう。(こういう場合に、トカゲの尻尾切り的に部下に責任を取らせることはありますが、多くの日本的組織では、そういう形で上司の罪を被った部下にはこっそりと恩賞【例えば、官僚組織では天下り先の斡旋など】を与えてバランスをとる、というようなことをやることもあります。)

こういった責任所在の曖昧さは、日本の組織におけるリーダーシップの古典的なありようと密接に関係していると思いますが、いずれにしても忖度文化が責任を曖昧にすることは確かです。

例えば、1945年8月の日本の敗戦直後に、当時の首相は「一億総懺悔」ということを国民に対して説きました。

要するに、日本が戦争に敗れたのは、政府や軍部にも責任はあるが、国民全体の責任なのだという論理です。

確かに、いかに明治憲法下とはいえ、曲がりなりにも議会や選挙制度が存在していた状況下で、軍部や政府の暴走を止めることができなかったことには国民に責任がなかったとは言えません。(もっとも、敗戦直後に一億総懺悔を唱えた当時の首相が言うところの「国民の責任」なるものは、軍部の暴走を止めなかったことにあるのではなくて、道義が廃れたことにあるということだったようですが。)

しかし、責任の軽重ということは、当然に問われなければなりません。

あの無謀な戦争に日本が突っ走ってしまった最大の責任は、当時の政府と軍指導部にあったとことは明らかです。(たとえ国民一人一人にも責任があっったとしても、それは政府や軍上層部の責任の大きさと比べれば軽微なものでしょう。)

「一億総懺悔」の考え方は、そういう責任の軽重への評価なしに、「Aにはたくさんの責任がある、しかしBにも少しだけ責任がある、だからAもBも同じように責任を取らなければならない」という、明らかに誤った論理に基づいているのです。(戦前の軍隊や今でも体育会組織などで横行していると言われている、「連帯責任」の発想もこれと似ているかもしれません。)

「一億総懺悔」論のよくないところは、単に責任の所在が曖昧になるだけでなく、再発防止策の策定を難しくすることにあります。

敗戦のような否定的な事案が生じた時には、そこに至る経緯(組織のあり方や情報の収集や活用のしかた、等々)を詳細かつ具体的に検証し、そういう結果が生じた原因がどのあたりにあったのかを明確にする必要があります。

そうすることで、今後はそういう否定的な事象が生じないようにするという失敗の教訓化が可能になります。

しかし、責任の所在や軽重を曖昧にする「一億総懺悔」論の元では、みんなが一斉に「ごめんなさい」と言ってそれで終わりです。

未来に向けてのポジティブな行動を難しくさせるのが、一億総懺悔論の一番悪いところだと言えます。

「経済リテラシー」はなぜ大切なのか

経済学は文化の違いを乗り越える言語

先ほどお話しした、私が留学時代にレストランで経験したことを思い起こしてください。

あのレストランのマネージャー氏は、私たちの要望に応えることができない理由を経済学の言葉を使って説明しました。

このことから聡明な読者は気が付かれるかもしれませんが、あの場において経済学は、さまざまな文化的背景を持った人々の間のコミュニケーションの手段、つまり言語として機能していたのです。

この言語としての経済学、そしてそれを支える論理は、文化の違いを乗り越えてある人の意思を別の人に伝えるための強力な伝達手段なのです。

困ったような表情も、曖昧な笑顔も、他人に「何か」を伝えることはできるかもしれません。しかし、それが伝えるメッセージが何であるのかの解釈は人それぞれです。同じ文化に属している人の間ならば、それでも多少は似通った解釈をすることができるかもしれませんが、確実なところは分かりません。

表情やボディーランゲージでなくて、言葉に出して話せば分かり合えるじゃないか、という人もいるかもしれません。

しかし、日本の企業のカスタマーセンターに電話すると、こんなことを言われることがよくあります。

あることをお願いした時に、それができないという時の返事です。

「**はできないことになっております。ご理解ください」

もちろん社会通念上無理な要求であったならばこの返事でもいいのですが、そうでなければ「できないことになっております」というのはあくまでその会社の内部のルールでは不可能だということだろうと思います。

うであるならば、その会社の従業員でない顧客に対しては、なぜできないのかを説明するのが、互いに相手をリスペクトする大人同士のコミュニケーションのあるべき姿です。

でも、こういう対応をする会社は多いですね。

しかも最後に取ってつけたように「ご理解ください」というわけです。普通は理解するための前提として理由が示されなければなりませんが、理由なしに理解を迫るというのは、売り手と買い手の間の対等性に反しています。

結局、理由を説明していないのに常套句のように「ご理解してください」と言ってしまうのは、彼らの頭の中には暗黙の了解事項があるんでしょうね。そして、その了解事項(本当は社内でしか通用しない了解事項でも)を、「同じ日本人ならばわかって当然」と思ってしまうから、こういう言葉の使い方になんの疑問も感じないのでしょう。(そして、私を含めて多くの日本人は、たとえ彼らのいうことが納得できなくても「仕方ない」と諦めてしまって、それ以上ものをいうことはないのでしょう)

先ほどのアメリカのレストラン・マネージャー氏は、学生時代に習ったと思われる経済学の知識を総動員して、客の要望に応えることのできない理由を説明しました。

彼は「アメリカではこういうことになっています。ご理解ください」とか「郷にいれば郷に従え」とかいうような、超越的な物言いをせずに、彼も我々も理解できる経済学の論理で私たちに説明したわけです。

皆さんは、理由も言わずに「そうなっております。ご理解ください」という日本の企業のカスタマーセンターと、このマネージャー氏のどちらがビジネスパーソンとして誠実だと思われますか。

経済リテラシーを高めるために身につけるべきことは?

グローバル化が進み、文化や国境を超えた経済活動が当たり前になっている現在では、経済学の基本的な理屈を身につけて、経済学の言葉(用語)でものを言うことの大切さがますます強まってきていることはこれまでの話でお分かりいただけたのではないかと思います。

それでは、経済学の何を身につけたらいいのか?という疑問が湧いてきます。

もちろん、大学の経済学の授業で教えるあらゆる経済学はどれも大切だと言ってしまえばそれまでなんですが、いくらなんでもそれは言い過ぎです。

経済リテラシーという観点にたてば、経済学において市場を理解するための基本的な考え方を身につけておくことが大切だと思っています。

そのためには、市場での経済活動を理解するための基本的な用語を理解することは必要です。

たとえば、先ほどのレストランのマネージャー氏の発言の中にもあった「効率性」。あるいは、「市場」、「価格」、「利息」、「消費者」、「企業」、「為替レート」等々の日常的にも使われている経済に関する用語が何を意味しているのかを理解しておくことは、大切だと思います。

また、経済活動の状況を表すデータ(例えば、GDP、金利、失業率、為替レート、物価指数、等々)の意味を正しく理解して、その動きを日々ウォッチしておくことも大切でしょう。

需要と供給を見極めることが経済リテラシーの基本

前項で述べた2つのこと(用語の理解とデータの把握)に加えて、とりわけ「経済学」という学問の骨格を理解するためには、需要と供給の原理を理解することはとても重要です。

特にさまざまな現実的・具体的な経済現象に直面した時に、それらの現象を需要曲線と供給曲線の図でどう説明することができるのか、ということを常日頃考えておくことはとても大切だと思っております。

例えば、起業を考えている人にとって、自分がビジネスを起こそうとする市場での需要と供給のありようを検討することはとても大事なことです。

以前、あるところで、何人かの方に起業についてのアドバイスをしたことがあります。あまり具体的な内容についてはここではお話しできませんが、それぞれの方が考えている起業の計画は、創意工夫を感じることのできる意欲的なものではありました。

それぞれの人から話を聞いて、「これはうまくいきそうだな」と感じたプロジェクトは、需要面と供給面について、具体的で丁寧な検討がなされており、さらには需要と供給のバランスもよさそうだな、と感じられるものでした。

それに対して、うまくいきそうもないと感じたプロジェクトは、需要面か供給面のどちらかに偏りがあるものばかりでした。

例えば、あるサービスを提供する事業を立ち上げたいという方がおられました。そのケースでは、確かにその地域ではそういうサービスへのニーズは十分にありそうだから、需要面は問題なさそうだなとは思いました。しかし、その地域の雇用の状況やその地域で働いている人々の年齢構成などを考えると、そのサービスに従事する人の確保はできるのだろうか、という疑問を持ちました。つまり、サービスの供給体制の構築に問題があるプロジェクトだったわけです。

それとは反対に、ある物品の移動販売をするというプロジェクトがありました。その物品の仕入れ先を確保することや、販売用の車両を購入するなどはできそうな感じでした。つまり、このケースでは供給体制の構築には問題がなさそうでした。しかし、どちらかと言えば若い人に人気がありそうなその物品を、高齢者の多いその地域で買いたいと思う人はどれくらいいるのだろうか?という疑問を持ちました。つまり、このケースでは、供給体制の構築には問題がなくても、果たして十分な需要があるのだろうか、という点がネックになってしまったのです。

下に掲載した需要曲線と供給曲線の図は、高校の教科書などにも出てくるシンプルな図ですが、実はこの図をうまく活用すると、市場について実にさまざまなことがわかります。

アメリカで経済学の大学院生だった頃には、昼ごはんを食べながら、友人たちと折々の経済問題について話したりしておりましたが、そういう時に需要曲線と供給曲線の図は、自分の頭の中を整理して、他人に自分の意見を伝えるために極めて有意義なツールになっておりました。

そういう意味でも、経済リテラシーを高めるためには、需要曲線と供給曲線の図を魔術師のように自由自在に使いこなせるようにしておいた方がいいと思います。

需要曲線と供給曲線

投稿者プロフィール

佐々木宏夫(ささきひろお)
佐々木宏夫(ささきひろお)
早稲田大学名誉教授。フリーランスの研究者。専門は理論経済学+ゲーム理論。Ph.D(ロチェスター大学:指導教授はポール・ローマー(2018年ノーベル賞受賞者))
インターネットラジオvoicyでパーソナリティとして発信中(「佐々木宏夫のアカデミア紀行」)。
趣味はスキューバダイビング(2023年10月に600本を達成)。還暦を過ぎましたが、隠居にならないように、研究、教育、趣味等で頑張っています。2022年12月からは東京と石垣島の2拠点生活をしています。

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